マルソリ・ラボ
言語学、音声学、日本語、韓国語など。
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国語・韓国語・朝鮮語
「国語」という名前 ― 自尊と唯我(原文は韓国語)
という韓国日報の記事を読みました。

例えば、イギリス人が自分たちの言葉を「国語」と呼ばず「英語」と呼び、同様にフランス人が自分たちの言葉を「フランス語」と呼ぶのに、韓国人はなぜ自分たちの言葉を「国語」と呼ぶのか、というところから話がはじまっています。イギリスやフランスと異なり、韓国が単一民族国家で少数民族の言語がないというのが、ここで述べられている一つの背景。さらにもう一つの背景として、日本のことが書かれています。

日本において、かつて帝国主義の時代に「国語」という呼び方が持っていた思想的な意味合い。「国語」と「日本語」の使い分け。そして、それと似ていなくもない韓国における「国語」と「韓国語」の使い分け。そういうところに話が向かいます。イ・ヨンスク氏の著作をふまえて論じているようです(私はこの本を読んでませんが)。

「国語」という思想―近代日本の言語認識 「国語」という思想―近代日本の言語認識
イ ヨンスク (1996/12)
岩波書店

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できれば、「国語学会」が「日本語学会」に改称したのに象徴されるような、日本における最近の「国語→日本語」の流れにもふれてほしかったと思います。
参考までに…国語学会―学会名称問題について

記事ではさらに、「韓国語」と「朝鮮語」のことにもふれています。記事ではこんなことが書かれています。


実際、「韓国語」という言葉は1948年に大韓民国政府が樹立した後になってはじめて使われ始めた言葉だ。日帝時代にはこの言語は「朝鮮語」と呼ばれ、解放後にも半島の北側では依然として「朝鮮語」と呼ばれており、日本(と中国)でも長いこと「朝鮮語」と呼ばれてきた。韓半島に二つの国家が樹立した後でも日本で「朝鮮語」という言葉が用いられてきたのは、日本人たちが北側に友好的だからではなく、「朝鮮」という言葉を半島全体の地域の名称として理解しているからだ。しかし、南北両国家の間の均衡が大韓民国の方に大きく傾いたのに加え、韓国側の執拗なロビー活動が受け入れられ、今では日本でも「韓国語」という言葉が広く使われているようだ。


私の経験では、こういった事情、(日本人もそうですが)韓国人にはあまり理解されていないと思います。それだけに、韓国でこういう記事が書かれるのは、きっと歓迎すべきことなのでしょう。
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テーマ:韓国語 - ジャンル:学問・文化・芸術

松本教授事件から思うこと
海外にいると日本のニュースがどうもよくわかりません。もちろんインターネットでいろいろと見ることはできるわけですが、そのニュースに対する世間の反応とか、そういうものを感じることができないのが、残念なところです。

今気になっているのは、早稲田大学の松本教授の事件。記事はいろいろありますが、例えば以下の毎日新聞の記事とか。
クローズアップ2006:早大教授・研究費不正使用 研究費集中が誘発要因

研究にはお金がかかります。ただ、言語学の場合、かかるお金は自然科学系と比べてごくごくわずかです。私の場合、いちおう「実験」を行うぶん、他の言語学者よりはお金を必要とする方かもしれませんが、実験もフィールドワークも行わない多くの言語学者にとって、かかるお金といえば本代と学会に出かける旅費ぐらいでしょう。そんなわけで、巨額な研究費とは縁の遠い言語学者にとっては、今回の事件はあまり関係がないことかもしれません。

ただ、はたして本当に関係のないことだろうか、とも思います。スケールが全然違うにしても、ある部分では似たようなことが起きていないだろうかと。つまり、本来研究が第一であり、そのために研究費があるはずなのに、いつのまにか研究費を獲得することそれ自体が目的化し、めでたく研究費を獲得した時点で、さてどう使おうかと困ってしまい、つまらないことに使ってしまうようなケースはないだろうかと。もちろん、今回の事件のように私的に蓄財してしまうような例は知りませんが。

全体として研究費が余っていると言っているのではありません。足りていないところも間違いなくあります。言いたいのは、研究費の審査、配分の仕方に問題はないだろうか、ということです。

この事件に関して、興味深く読んだのは以下の二つのブログです。

柳田充弘の休憩時間:白昼堂々の早稲田大学教授
「本来の研究能力にふさわしくない、巨額の研究費をとることを画策して、手にした研究者がどのようになっていくか、一つの例ではないでしょうか。」とのこと。

Y日記:松本和子教授事件の背景と教訓
「選択と集中」の政策を批判しています。「何でも大型化・重点化すれば、成果があがるというものではない。」その通りだと思います。

今回の事件はいろいろな問題を示唆していそうです。そして、その根は私の想像が及ばないくらい深いところにあるのかもしれません。

オープンアクセス
論文の無料公開は著者にとっても利益になるというブログの記事を読みました。オープンアクセスに関する話です。

私の専門分野の世界は、これよりも何段階も遅れている気がします。ごく一部にはオープンアクセスもあります。言語学・音声学の国際誌の多くは、オンラインジャーナル化されていて、所属機関がそのジャーナルを購読していれば、ダウンロードすることができます(はじめてダウンロードしたとき、何て便利なんだろうと思いました)。でも、国内の学会誌の場合、インターネット上から得られるのは論文の目次ぐらいです。さらに、学会によっては、ホームページを持っていないところすらあります。

それはともかく、このオープンアクセス。利用する側からすればとても便利ですし、こういう動きは広がってほしいです(特に海外にいると、日本の論文を入手することの面倒さを実感します)。でも、現実的にはいろいろ難しい面があるんでしょうね。出版社からすれば、ただで公開しては儲からない。学会が出している学会誌の場合、会員であるかどうかに関わらず論文が自由にダウンロードできたら、会員であることのメリットが少なくなり、会員が減ってしまうかもしれない。このへんがきっと問題になるのでしょう。


研究者版「人生ゲーム」
理系白書:思わず熱中!?研究者版「人生ゲーム」 成功つかめるか

こんな記事をみつけました。ちょっとやってみたい。でも、今歩んでいる人生そのものがこのゲームと同じようなものだから、別にいいかな、、、

確かに、昔は研究者の人生というものがどういうものか、想像がつきませんでした。私が研究者というものに興味を持つようになったのは、たしか高校生の頃だったと思います。でも、今にして思えば、当時の自分は研究者についていったい何を知っていただろうか、と思うのです。おそらく、当時読んだ湯川秀樹の自伝『旅人』の世界ぐらいだったと思います。(この本は今でも大好きな本ですが、なにしろ戦前の話なので、現代の研究者の「現実」を理解する上ではあまり参考にならないと思います。まして自分は文系だし。)



研究者というもののイメージが少しずつつかめるようになったのは、大学院に入り、実際に研究者の卵として活動を始めるようになってからだと思います。

それにしても、上の記事で、お金ではなく時間がゲームの鍵をにぎるというのは、確かに、と思いました。時間というのはとても大事で、私なんかはそれを求めて韓国に来たようなものです。今、その手にした時間を有効に使えているかどうかは疑問ですが。

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